偶然か必然か「紫電改」

 戦争末期、日本本土に襲来するアメリカ軍爆撃機や戦闘機から日本を守るため、九州地区に設立された第三四三海軍航空隊は、知っている人も多いかと思います。

 戦地から優秀な搭乗員をかき集め、エースのみで編成された三四三空は、紫電改という最高の戦闘機と相まって、鬼神の如き活躍をしました。

 紫電改は20mm機関砲4門の大火力と、離昇1990馬力の大型発動機を装備した戦闘機で、自動空戦フラップという機能が備わっていました。自動空戦フラップとは機体に最適な揚力を、速度と翼面荷重から割出して油圧でフラップを自動で作動させる装置のことで、初期段階では誤作動や故障が相次いだものの、量産化の段階では故障なしと太鼓判を押されました。

 紫電改は正式名称「局地戦闘機紫電二一型」といい、紫電一一型から改良を加えた戦闘機です。紫電一一型もまた、ある航空機に改良を加えた航空機で、なぜそうなったのかを紐解いていきましょう。

 戦争初期、日本海軍は南洋の島々を占領し要塞化して島伝いに勢力を伸ばしていきました。南太平洋の島々は、鬱蒼としたジャングルが生い茂り、山も多く飛行場の建設ができないことがほとんどでした。その中でもとりわけ大きめの島で滑走路を作ったガダルカナルラバウルなどは、のちにアメリカ軍とこの地かけてを争うことになります。話は逸れましたが、滑走路が確保できない以上、滑走路完成までの島の制空権が危ぶまれました。そこで海軍は、空母艦載機に加えて新たな戦力として、広大な海を滑走路とする水上戦闘機を島の防衛に就かせようとしました。そのため九七式飛行艇を開発し、水上機スペシャリスト川西航空機に水上戦闘機の開発を依頼し、川西は水上戦闘機「強風」として開発をスタートしました。しかし海軍の要求は、水上戦闘機として当時の最新鋭機の零戦以上の性能でした。そのため開発は難航したため、繋ぎとして零戦を水上戦闘機として改修した二式水上戦闘機を量産しました。もとが零戦だけあって、水上戦闘機としての操作性も柔軟で、火力と速度も水上戦闘機としては破格の性能でした。

戦争中期、東南アジアの島々が連合軍の反撃にあい、日本軍は次第に苦境に立たされます。それに伴い水上戦闘機の需要が激減します。そこで川西航空機は、この需要の減った「強風」を陸上戦闘機として改良することを軍に打診します。

ちょうどその頃日本軍では、零戦では歯が立たなくなってきており、次世代の戦闘機を模索していました。三菱では邀撃機「雷電」と新型艦上戦闘機「烈風」の開発で手一杯であったため、川西の提案を受け入れました。

ただ改良は難航し、各装備を陸上戦闘用に換装した結果、そのまま使える部分は操縦席付近のみだったようです。

こうして出来上がった「紫電一一型」は、急ピッチの改造と発動機の不調から、カタログスペックを大きく下回り、あまり快く思われていませんでした。この結果を見た川西は、すぐさま改良にとりかかり、翼の位置や自動空戦フラップの装備、主脚の剛性強化などを施し、局地戦闘機紫電改」として生まれかわりました。

紫電改の活躍は、最初にお話しした通り目覚ましいものでした。これをみた海軍は、なかなか開発の進まない烈風に苛立ち、紫電改艦上戦闘機として改良しようとしたほどでした。また高馬力の発動機から防弾にも余裕があり、連合軍からも一定の評価をされています。

逸話として、機体のシルエットがアメリカ海軍戦闘機F6Fと酷似していたために、味方に誤射される事件も起きています。

次回はそんな繋がりから、番外編としてF6Fについてご紹介します。