陸軍最強の邀撃機「鍾馗」

二式単座戦闘機「鍾馗」は、名前こそ一見すると一式戦闘機「隼」の後継機に思えますが、実は開発自体は同時期に行われています。また皇紀二年には、もう一機別の戦闘機が採用されたため、一人のりの鍾馗を単座、二人のりの屠龍を二式複座戦闘機としました。

固定脚で単葉機の九七式戦闘機は、それまでのロシアの複葉機に対して優位な速度と操縦性で活躍していましたが、ヨーロッパではイギリスのスピットファイアやドイツのBf109など、引き込み脚を採用した高速戦闘機が活躍し始めました。九七式戦闘機ではこれらの戦闘機に苦戦を強いられることは必至であると考えた陸軍は、次世代の戦闘機開発に着手します。

そこで陸軍は、九七式戦闘機の長所である抜群の運動性能と広大な航続距離を踏襲した軽戦闘機の甲案と、運動性能と航続距離を捨て上昇力と最大速度、急降下速度に優れた重戦闘機の乙案を打ち出しました。

甲案では引き込み脚を採用したものの、その他目新しい技術はなく保守的ではありましたが、改良を重ねることによって優秀な戦闘機となった一式戦闘機「隼」が誕生しました。

一方乙案では、海軍の雷電と同じく今までの単座用発動機では性能を満たすことができないため、倍近い馬力をもつ1500馬力級発動機を搭載しました。直径の大きい発動機を搭載したため、機体全部を太くした雷電と異なり、鍾馗は機首から尾翼に向かって急激に絞り込む独特の形となりました。また尾翼も垂直尾翼水平尾翼を後方に配置することで飛行中の水平時に抜群の安定感を産み出し、射撃が容易となる一方で、着陸時の低速域では垂直尾翼が機体の影に入ってしまい安定性を欠いてしまう一面もありました。雷電同様に隼の搭乗員の中には格闘戦の苦手な鍾馗を嫌う人もいました。

重戦闘機は日本にとって初めての試みであったためそのほとんどが新技術となり、安定性に優れた一式戦闘機が正式採用されることは陸軍も中島飛行機もある程度想定していたため、二式単座戦闘機は実験的な戦闘機となりました。

重戦闘機の経験のない陸軍はドイツのBf109を参考にしているため、日本人搭乗員が操縦に苦労する中、来日していたドイツ人パイロットは「パイロットがこいつを使いこなせれば世界一の航空隊になる」と評価しました。

しかし、新たに出現した超空の要塞と呼ばれるB-29を撃墜するためには火力が不足していたため、40mm機関砲を鍾馗の翼内に装備しました。その威力は絶大で、2~3発当てれば機体が木端微塵になるほどでしたが、当てるためにはより接近する必要がありました。相手の機体後方上部から急降下で一撃を加え、そのまま後方下部へすり抜けるという今までの戦法では、機体の後方に火器管制のついた機銃を集中させているB-29には有効な戦法にはなりませんでした。

四式戦闘機「疾風」が開発増産されるなか、三式戦闘機「飛燕」と共にB-29を体当たり覚悟で邀撃しましたが、ついには本土決戦にソナエテ温存された疾風を出撃させることなく終戦を迎えました。

鍾馗を鹵獲したアメリカ軍では、上昇力と滑るような加速、安定した射撃姿勢を評価した上、陸軍が12.7mm機関銃に使用していたマ弾と呼ばれる炸裂弾、焼夷榴弾と相まって攻撃力は決して低くないとされました。日本軍基準では旋回性能が低い部類でしたが、欧米諸国からみるとやはり軽快であり、航続距離の少なさは、邀撃任務専用の重戦闘機であったため、さほど問題にはなりませんでした。

次回は、艦上偵察機「彩雲」をご紹介します。