海上偵察のエキスパート

第二次世界大戦中、航空母艦が艦隊の主力を担い、航空機による奇襲攻撃が海上の戦闘の要となり各艦艇の電探はもちろん、上空からの偵察が先手必勝の鍵となりました。

しかし空母には戦闘機の搭載数が限られていたため、戦闘機や爆撃機を偵察用に改造したものを多く使っていました。また水上機を戦艦や巡洋艦のカタパルトから射出して偵察に出すこともありましたが、戦艦に搭載された水上機は安定性には優れるものの、戦艦の砲撃着弾地点を上空から観察するためのものであったために、速度が遅く敵の戦闘機に見つかると容易に撃墜されてしまいます。そこで日本海軍は、世界では見られない空母から発艦する艦上偵察機の開発を進めました。

海上偵察機として海軍が要求した内容は、広大な海上を飛行するための航続距離・敵戦闘機を振り切る速度・昇降機に収まるよう、翼の折り畳みをしない簡易な構造の3点でした。

中島飛行機は早速開発に取り組み、艦上偵察機「彩雲」を完成させます。彩雲の最大の特長はなんといっても、航空機として非常に美しい形をしていることでしょう。これは海軍の最高速度の要求の達成を、空気抵抗の軽減に精力的に取り組んだ結果とも言えます。また空母の昇降機に収まる大きさであり、翼に折り畳み機構を着けないことで簡略化することができました。

空母という短い滑走路から飛び立つために、プロペラを大直径のものを採用し、1600馬力級発動機を装備しました。しかしプロペラが接地しないよう主脚が伸びたために、操縦席が高くなってしまい下方視界が狭まり、低速域での安定性がなかったため空母への着艦は難しいようでした。

海上での空母着艦が難しくなってしまうと、作戦に支障を来してしまいますが、彩雲が正式採用された頃海軍では、空母の多くが沈められてしまったことに加え、彗星や天山などの爆撃機を偵察用に改造したものを搭載していたため、彩雲の運用を陸上にすることを決定しました。そのため着艦性能の悪さは問題ないとされましたが、整備の行き届いていない陸上滑走路への着陸の際、長い主脚が衝撃に耐えきれず折れてしまう事故が多発しました。

彩雲の快速を示す逸話として、陸上から洋上へ偵察任務に出た際、F6Fヘルキャットに発見され迎撃に向かってきましたが、彩雲はぐんぐんとヘルキャットと距離を開け「我ニ追イ付ク グラマンナシ」と有名な台詞を司令部に打電をしています。事実彩雲は正式採用をされた海軍機のなかで最も速い639km/hを計測しています。

艦上での活躍の機会はありませんでしたが、地上では文字どおり航空隊の目として大活躍しました。中でも有明な航空隊である第三四三海軍航空隊、通称三四三空は当時の最新鋭機紫電改を配備していました。また通信設備を充実させ、搭乗員は各機連携の取れた攻撃を行うため日夜過酷な訓練を積み、末期の日本屈指の航空隊でした。敵より優位な位置から攻撃を開始するためには、得られる情報が不可欠なため、当時の海軍では珍しく偵察機のみの飛行隊と連携を密にとっていました。彩雲は敵の数や機種はもちろんのこと、九州各地の司令部の状況や天候、敵艦隊の数や位置などありとあらゆる情報を得るための目として三四三空の活躍に大いに貢献しました。

戦後アメリカ軍のテストでは、高性能の燃料を使用したところ694km/hを計測し、いかに快速であったかがわかるデータとなりました。

次回は陸軍の液冷発動機を装備した三式戦闘機「飛燕」をご紹介します。