日本産航空機の産声

古来より人類は、大空を自由に飛び回ることを夢見ていました。熱気球、飛行船、グライダー、レシプロエンジン航空機・・・

このような空を舞うための力は、発明と同時に軍事に利用され、それまで地上や海上の戦闘に新たに空中という戦場が生まれ、空を制することで勝利に繋がった作戦がいくつもありました。

世界で初めて動力飛行を成功させたのはライト兄弟であると言われています。では日本ではどのような人物が動力飛行を成功させたのでしょう。

日本初飛行の日とされる12月19日、初飛行の偉業は徳川好敏陸軍大尉によってなされたとされています。徳川大尉はフランス製の複葉機で約3000mの飛行に成功しました。しかしその徳川大尉より先に飛行を成功させた人物がいます。同じく陸軍の日野熊蔵大尉です。日野大尉は、ドイツ製の航空機で徳川大尉より早い14日に飛行を成功させています。しかし陸軍へのお披露目が同じ日だったことにくわえ、徳川家の血を引く徳川好敏大尉が初飛行であると陸軍は定めました。

その後日本では徳川大尉主導のもと、初の軍用機を完成させます。臨時軍用気球研究会式一号機、通称会式一号機は、徳川大尉が初飛行を達成したフランス製航空機を参考に、徳川大尉が改良をした初の国産軍用機となりました。この頃の航空機は航続距離がみじかく、風や天候に大きく左右するため、海上が主戦場となる海軍は兵器転用は難しいとして全く興味を示しませんでした。実は航空機運用のパイオニアは陸軍ということになります。

航空機の運用を検討してから第一次世界対戦を経て日中戦争開戦前まで、日本は工業能力の低さと航空機の知識がないため、航空機産業は常に欧米の模倣でした。また軍の中でのみ開発、生産を行うだけでは戦力たらないということで、中島飛行機をはじめ三菱、川崎といった日本の重工業を担う民間企業が航空機産業に参入しました。これにより軍が性能を要求し、民間企業が互いに切磋琢磨しながら航空機技術を向上させる形が出来上がりました。そして第二次世界対戦では少ない資源の中数々の傑作機を産み出しました。

次回は陸軍と海軍の航空機の違いをご説明します。